佐倉城 幕閣が入城した江戸の東を守る土の城

角馬前面の空堀 未分類

今回は、幕府の権力者が城主となった土造りの要害、千葉県くら市のくらじょうに行って参りました。

佐倉城の概要

この城は、鹿島氏の中世城郭が原型で、江戸時代初期に土井利勝によって大改修された城です。江戸の東を守る防衛拠点として、幕閣の有力な大名が次々と城主を務めていきました。石を用いず、天然の地形を活かして、土塁と堀で守りを固めています。

陸軍が置かれた城

佐倉城は明治以降、鎮台ちんだい分営の陸軍歩兵第2連隊が城内に置かれました。現在、城内に国立歴史民俗博物館があり、佐倉連隊の関係資料が展示されています。また、城内の各所に陸軍の遺構が残っています。

しゃっちゃん
しゃっちゃん

軍隊が置かれた城って全国にたくさんあるけど、佐倉城は多くの遺構が残っている城なんだね!

関東最大級の佐倉武家屋敷

JR総武線・成田線の佐倉駅から徒歩で佐倉城へ向かいました。駅から15分ほど歩き、坂の上の台地上にある佐倉武家屋敷の地区に着きました。江戸時代の城下町の面影を残すこの地区では、旧河原家住宅、旧但馬家住宅、旧武居家住宅の武家屋敷が公開されています。入館料は、2025年現在、一般250円、学生120円でした。

写真は、武家屋敷の中で一番古い旧河原町家住宅です。土塁や生垣などの通りに面している屋敷は、江戸後期の建築で、昔の武士が住んでいた様子を想像できました。旧武居家住宅では、武家屋敷の関連資料や藩士の生活品などが展示されていています。

武家屋敷から少し歩いたところに、通りに隣接する「ひよどり坂」がありました。この坂は、江戸時代の姿のままの竹林が残っています。

風情があり、武士がこの小径を行き来する様子が想像できます。京都の嵐山に行くよりここに行った方が、人があまりいないので、風情ある竹林を堪能できると感じました!

幕閣が城主を務めた土の城、佐倉城入城

「ひよどり坂」を下り、坂から5分ほど歩くと、大手門跡に着きます。

大手門跡に着くと早速、巨大な土塁を目にしました。

綺麗な形で復元されていて、大手から早々に土の城の雰囲気を漂わせています。

さらに真っ直ぐ歩くと、100名城スタンプが置かれている佐倉城址公園センターがありました。

入館料は無料で、佐倉城に関する模型や資料が展示されていました。特に天守の模型は、どのような様相だったのかを知ることができて、見る価値がありました。

そして、真っ直ぐ歩くと、いよいよ城址公園の入り口に着きます。入り口には、巨大な空堀からほりがありました。

草木があまり伸びていないので、綺麗に形がわかりますね。あまり石材などを使わずに、自然の地形を活かしている様子がわかります。早咲きの桜が咲いていて、美しい風景でした!

空堀の側面に三の門跡があり、門内が三の丸の領域となっています。三の丸を少し歩くと佐倉連隊脂油庫が残っていました。

陸軍が、銃の手入れをするときの油を保管していた倉庫です。あまりパッとしない建物ですが、佐倉連隊の戦争遺構として貴重なものだそうです。

さらに三の丸を少し歩くと、ハリス像と堀田正睦まさよし公像がありました。佐倉は、堀田正睦が生まれた場所でもあります。

ハリスは、通商条約を結ぶため、日本に滞在する初のアメリカ外交官(駐日総領事)として下田に来ました。老中・堀田正睦と通商条約について話し、来日2年目で幕府に日米修好通商条約を結ばせることに成功しました。

堀田正睦は、文化7年(1810)に生まれ、その後佐倉藩主となりました。幕府の老中となり、阿部正弘まさひろから「老中首座」を譲られました。日本が欧米列強に対抗するには、貿易をして国を豊かにするべきだとして開国論を唱え、アメリカ外交官・ハリスと通商条約を結ぶ交渉を始めることになります。しかし、攘夷派の孝明天皇から通商条約の許可を得ることに失敗した後、老中を辞めさせられました。

堀田正睦は、あまりに残念な人生を送った老中ですが、彼は佐倉藩で藩政改革を行い、文武の奨励によって人々の生活の向上を図りました。そのため、佐倉の人々からは広く敬愛されているそうです。一見かわいそうな歴史人物でも、実は良い面があったりして、あまり人の人生を簡単に語るのは良くないことですね。

二人の像の間を抜けると二の門跡があり、門内は藩政を執る役所があった二の丸になります。二の丸には、二の丸御殿跡がありました。

本丸御殿は常用されていなくて、歴代城主はこの二の丸御殿に住み、多くの藩士が勤務していました。佐倉城主は、幕府の権力者が多かったこともあってか、豪華な殿舎の遺構も残っています。

土塁に囲まれた本丸と出丸

二の丸を少し進むと、いよいよ一の門跡が見えてきました。

本丸から見てはじめての門であるため、「一の御門」と呼ばれていました。門内の本丸には、御殿が建てられ、御殿の前庭には金粉をすり込んだ栗石が敷かれていたそうです。さすが、富がある幕閣の城ですね!

本丸は、だだっ広い空間でした。

周囲は土塁に囲まれていて、複数のやぐら跡があります。早咲きの桜がポツポツと咲いていましたが、満開だと本丸中に咲き乱れている様子が想像できます!

また、本丸には天守台がありました。

奥の生垣部分が天守台です。後方の土塁と連結していて、三重の天守は1階部分が土塁に懸っていたかけづくりでした。そのため、天守前面と後方で、高さが異なる天守に見えていたそうです。

本丸にはまた、「夫婦モッコク」と呼ばれる面白い物がありました。

モッコクは、西日本に自生する小きょうぼくで、土井利勝が庭木として植えたと伝えられています。このモッコクには、兵士が落書きした文字があります。

「昭和十八年十月」「砲隊」と掘られています。軍事訓練の合間に彫った物なのでしょうか。昔の人の落書きがそのまま残っているなんて面白いですね!

土塁を上って、少し北へ歩くと、礎石がありました。

巨石が並んでいますね。城の建物の基礎を、そのまま兵舎の基礎に転用したそうです。

次に、外縁の水堀に向かいました。湿地帯に掘られた水堀が本丸台地を巡り、水堀に守られた南出丸と西出丸があります。本丸側からは、水堀を見ることができました。

右側が出丸部分で、水堀の残存状態は良好でした。また、出丸も見渡すことができました。

周囲が土塁で囲まれていて、凹んでいるのがわかります。少しわかりにくいかもしれませんが、写真左奥がぐちとなる枡形ますがたになっています。

用語解説
  • 虎口……城の出入り口
  • 枡形……虎口前面に方形の空間を設け、周囲を土塁などで囲い込んだ虎口

佐倉城の代名詞、巨大な角馬出

次に、三の丸北側に向かいました。道中には、兵営の便所跡がありました。

石組みが綺麗に並んでいます。江原新田は連隊との契約により、下肥しもごえや馬糞の譲渡を受けて、汚物の清掃を受け持ちました。軍のトイレが残っているなんてすごいですね!

椎木門跡を抜けると、いよいよ佐倉城の代名詞、角馬出かくうまだしの空堀が見えました。

写真は角馬出前面で、右側が馬出部分です。国立歴史民俗博物館前の三の丸北側に位置する、巨大な角馬出の空堀が復元されています。

イッセイ
イッセイ

昔はこれよりもっと深い空堀だったそうだよ。

しゃっちゃん
しゃっちゃん

もっと深いの⁉これでも十分巨大なのに・・・・・・

用語解説
  • 馬出……虎口の前面(外側)に設けられた、攻撃の拠点となる小規模な曲輪(城の平坦面を持つ一区画)
  • 角馬出……四角い形の馬出

角馬出から少し三の丸の方へ向かうと、おばが池が見えます。

この池の周りでおもりをしていた乳母があやまって姫を落としてしまい、困り果てた乳母は身を投げたと伝えられ、「姥が池」と呼ばれるようになりました。なんとも悲しい話しですね。

池の近くには、訓練用階段がありました。

降下練習用の12階段です。こんな石段のみが残されているなんて、驚きですね。

しゃっちゃん
しゃっちゃん

やっぱり、城内に陸軍の遺構がたくさん残っていたね!

イッセイ
イッセイ

そうだね。近代の軍隊が置かれた城は他にもたくさんあるけど、それはまた別の機会で紹介するね!

今回は、幕府の権力者が入城した城に行けて、土の城の魅力を知ることができました。

参考文献:公益財団法人 日本城郭協会,(2018),『日本100名城に行こう』,学研プラス. 大野信長,有沢重雄,加唐亜紀,(2018),『日本の城1000城』,西東社. 千田嘉博,(2018),『一生に一度は生きたい日本の名城100選』,宝島社.

コメント

  1. user683523 より:

    Nice post! 1754805032

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