高取城 壮大な規模で、比高日本一の山城

高取城 天守台 近畿

今回は、近世まで存続した最大規模の山城、奈良県高取町の高取たかとりじょうに行って参りました。今回で、2回目の攻城です。今回は、大学の友だちと攻城しました。

高取城の概要

奈良盆地の南、標高583mの高取山に築かれた代表的な近世山城が高取城です。南北朝時代に越智おち邦澄くにずみによって築かれたといわれていますが、その時期の詳細の詳細はわかりません。戦国大名・筒井順慶じゅんけいが整備改修した後、羽柴秀長の領国下で家臣・本多氏によって近世城郭へと改修されました。広大な山城は、釘抜くぎぬき門から内側を「郭内」、二の門から内側の主要部を「城内」と呼んで分けられます。近世に築かれた山城としては最大規模であり、比高は日本一の390mになります。本丸以下の中枢部は総石垣で、織豊系の特徴が色濃く見られる高石垣が今も残っています。周囲約30kmの敷地に、三層の天守、二層の小天守、27ものやぐらが配されました。日本三大山城に数えられています。

しゃっちゃん
しゃっちゃん

「比高」って何?

イッセイ
イッセイ

「比高」とは山麓から本丸までの高低差のことで、その数値が大きいほど攻めにくいと言われているよ。

古き良き城下町、土佐街道

近鉄吉野線の壷阪山つぼさかやま駅に着きました。

駅を降り、国道169号線を渡って100mほど進むと、北西から南東に延びる旧城下町に出ます。この辺りは古くは土佐街道と呼ばれ、豊臣秀吉の吉野桜見の道中で高取の茶屋に立ち寄ったことから高取藩の城下町の発展が始まったといわれています。高取城の大手筋へと続く一本道となっている土佐街道は、大和平野と吉野地方の文化の交流拠点として大いに賑わい、現在はその佇まいがよく残されています。

まずは、土佐街道を城とは反対方向に5分ほど進み、嶋寺じまでらという寺に行きました。

壺阪寺と双璧といわれる古刹です。天平勝宝4年(752)に報恩大徳により創建されたとされ、一時は21坊もの伽藍を誇りました。写真の山門は高取城二の門を移築したもので、現存する高取城の唯一建造物です。薬医門形式の切妻造・本瓦葺建物です。荘厳な構えの古寂びたもので、歴史を感じます。それでは、城を目指して行きます。

用語解説
  • 薬医門……門扉が雨に濡れないように巨大な屋根が付いている門
  • 切妻造……屋根を棟から両側へふき下ろし、その両端と棟を直角に切った造

土佐街道に戻りました。土佐街道は全長2kmにも及び、旧城下町の街並みを味わうことができます。

人通りは非常に少ないですが、往時の賑わいを偲びながら歩いて行きます。

城方面へ10分ほど進むと、石川医院があります。

高取藩下屋敷表門が移築された重厚な構えの建物です。現在も医院の門として利用されています。

さらに5分ほど歩くと夢創館に着きます。

大正時代、呉服屋を営んでいた町家を改修し、町の観光案内やお土産物の販売を行なっています。100名城スタンプは、ここで押すことができます。私たちは軽食を食べたかったので中に入ると、スタッフに奥座敷に案内され、そこで自前のおにぎりを頂きました。丁寧な対応と歴史感じる屋内で感無量でした!

夢創館を出て、街道を少し進むと松の門が見えます。

高取城の廃城時に土佐小学校に移築され、昭和19年(1944)の火災にて一部焼失し、現在は残存部が児童公園で復元されています。桜とマッチしていて、門が映えていますね!

さらに少し進むと植村家長屋門に着きます。

高取藩の筆頭家老・中谷家の屋敷です。現在は旧藩主の植村家の住居となっています。近代武家屋敷表門の遺構を残す貴重な建造物であることから、奈良県の指定文化財になっています。海鼠なまこ壁が特徴で、城下町の雰囲気を感じられます!正面の丘には旧藩主下屋敷があったとされます。

城下を見下ろす高台に位置し、現在は農地となっています。この辺りが、城下町の中心地だったことがわかります。

下屋敷跡辺りから、民家が少なくなり、坂が少し急になってきました。道中では、高取城の遠望することができます。

写真の奥の方に見える山が高取山です。城下からの比高が日本一ということで、「日本三大山城」の名の大きさを感じます。今からこれを登っていくのかと思うと、好奇心がでてきます!

下屋敷から15分ほど進み、砂防公園に着きました。訪れたのが4月上旬だったこともあり、桜が満開でキレイでした!

自然環境が豊かで、木製の吊り橋や展望公園などが備えられています。高取城のハイキングコースにあり、城下町を歩いた疲れを癒やしてくれました。

黒門から二の門までの登城路

砂防公園から坂が一気に急になり、少し先の黒門跡に着きました。

ここから郭内と呼ばれる区分に入り、道は登山道となります。この地点からの比高が390mということで、道の険しさを感じる登山口でした。登山道は登っていくほど急になり、自然地形を取り込んで造成したくる群の高低差に驚かされます。

用語解説

曲輪……城の平坦面を持つ一区画

15分ほど登ると、七曲りと呼ばれる道に入ります。

名前の通り、7箇所連続でヘアピンカーブが続く道となります。高低差が非常にあるため、道を何度も折らせたと思うのですが、それでも坂道は急でした・・・。

そのような山道をさらに15分ほど登ると、石垣が見えてきます。谷を見渡すと、非常に高い木が遠くまで乱立して立っています。

登山道は、木造りの段で登りやすくはなっているものの、ガードレールや手すりがないため気をつける必要があります。この辺りから、山道が狭くなってきました。少し進むと、一升坂と呼ばれる長い直線の坂に出くわします。「一升坂」という名称は、高取城築城の際に、急坂であるため石材を運ぶ人夫に米一升を加増したことによるといわれています。

しゃっちゃん
しゃっちゃん

それほどの難所だったんだね!

急な直線の坂を登り終え、少し進むとようやく二の門に着きます。

まず、猿石とよばれる石像が見えました。

二の門外、私が登ってきた大手筋と明日香村方面へと続く岡口門の分岐点に佇む、お猿さんの石像です。城の石垣に転用するために明日香から運ばれてきたという説や、郭内と城内の境目を示す「結界石」とした説もあります。明日香村にも同類のものが存在します。

猿石の先に、二の門があります。

ようやくここまでたどり着きました!この険しい山道はいつまで続くのか続くのかという思いでした。この二の門より先が城内という区分となります。

二の門の左脇には、水堀が残っていました。

山城には珍しい石垣造りの水堀で、現在も水を貯えています。東端は幅4mの堤によって堰き止められ、水量が増加すると奥の谷に落ちる仕組みになっています。それでは、本丸へ向かいます。

絶景と石垣の城内

二の門を通り、左に曲がるとすぐ三の門が見えました。

この辺りから本格的に石垣の遺構がたくさん見られます。さらに進むと、矢場門が見えます。

矢場門の右側には通路があり、西にそのまま約50m進むと小規模な曲輪に出ます。

この曲輪の先端には、7間四方の国見櫓と呼ばれる二層造りの櫓が建っていた場所があります。そこからの景色は、まさに絶景でした。

眼下に香具かぐ山・うね山・耳成みみなし山の大和三山が見え、奥には二上山が見えます。さらに晴れていれば、遥か遠くに大阪平野を見渡すことができ、あべのハルカスまでも眺められます。櫓の名にふさわしく、大和を一望できるかのような眺望です!

イッセイ
イッセイ

「絶景」というのも山城の醍醐味だね!

矢場門に戻り、門を抜けると直線上に松の門・宇陀門・千早門と続きました。

千早門を抜けると三の丸に入り、門の右脇には城代屋敷跡があります。城代屋敷は、実質的な中枢部の入口にあたります。

千早門を抜けた先にようやく大手門の高石垣が姿を現わします!

二の丸入口の門です。正面が平櫓の竹櫓が建っていて、右に曲がると薬医門形式の大手門がありました。門の構造は、右に曲がった先の石垣を登るとわかりやすいです。

写真左側が入口です。鍵の手に折れて石段を登る構造でした。侵入する敵を石垣の上から射撃しやすい造りです。

大手門を抜けたすぐ先に、十三間多門があります。

二の丸の正面口で、大手門と同じように石段を登り鍵の手に折れて、二の丸御殿へとつながります。十三間多門は櫓門で、北側に二の丸多門が接続していました。

十三間多門を抜けると二の丸の広い空間に出て、辺りは開けていました。二の丸には、本丸を守るように太鼓櫓と新櫓の石垣が建っていました。

昭和47年(1972)に修復されました。写真の石垣の上に太鼓櫓、右側に新櫓が建てられました。本丸の正面にあり、2つ櫓を並べる堅固な構造となっています。

太鼓櫓の左側には十五間多門があります。

この門を抜けた先に、いよいよ天守台と対面します!

壮大な天守台と累々と連なる高石垣

十五間多門を抜けるて左手を見ると、突如として壮大な天守台が姿を現わしました!

城内最大の高さ約10mを誇る天守台高石垣です。この上に明治初年まで天守が建っていました。天守は絵図によれば、白漆喰総籠の三層のものでした。右端に見えるのは小天守台で、西多門によって天守は接続していました。天守台北西面はこのようになっています。

苔むす石垣の姿で、趣を感じました。THE古城って感じがします!

古城といえば、天守台の麓にこのような歌碑がありました。

『巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城』と歌われています。これは、遥か遠くの高取山中に白亜の白壁が連なり、まるで雪山のように見事だと、奈良盆地から高取城を望んで歌ったものです。

しゃっちゃん
しゃっちゃん

天守が建っていた頃に歌われたものですが、現在は現在で趣を感じられるため、高取城は今も昔も変わらず人々にとって魅力的な存在なんだね。

天守台を東側に回ると、圧倒的な規模の本丸の高石垣群を肌で感じられます。

高取城の本丸は大天守・天守・三層櫓群をもん櫓で繋ぐ壮大な構えでした。写真は、あぶみ櫓台です。

用語解説

多聞櫓……城壁の代わりとなる細長い櫓

少し進んだところに、木彫りの案内の像がありました。

かわいい熊さんですね!奥には精巧な天守の木彫りもあります。それでは、熊さんの案内通り、本丸へ入っていきます。

本丸へは、本丸ぐちから入っていきます。

写真は、本丸側から虎口を撮ったものです。枡形ますがた虎口となっていて、城内でも特に強固となっています。ここには門や櫓が多数並んでいて、天守曲輪へ続く通路が作られました。実際訪れると、全く建物はありませんが、想像しながら狭い通路をたどるのが楽しかったです!

用語解説
  • 虎口……城の出入口
  • 枡形虎口……虎口前面に方形の空間を設け、周囲を土塁などで囲い込んだ虎口

石段を登ると本丸に出ます。

広々とした空間でした。本丸は高石垣の上であるため、下を覗くと足下がすくみました。特に南側は高かったので怖かったです。

上から覗く高石垣も風情があって良いですね。また、本丸からの景色も良かったです。

写真は、吉野方面の景色です。山々が連なっていて、山城を実感できます。

天守台南側に行くと、極めて小規模の穴蔵あなぐらが見えます。

用語解説

穴蔵……天守内部の地階の四方を石垣で囲む構造

高取城の石材には古墳の石棺が使用されています。写真左下の石垣は、その転用石です。どこにあるか探すのも楽しかったです。

天守台からは、先ほど登場した太鼓櫓・新櫓の石垣を上空から見ることができました。

写真右側に太鼓櫓、左側に新櫓が建てられました。こうして、ようやく天守台まで登りきることができました!高い山上に累々と残る石垣を目にし、その光景に感動した登城となりました。

七つ井戸の石垣

太鼓櫓・新櫓の石垣の脇にあるからめ(城の裏手)から下山しました。帰り道こそ急な斜面で滑ってはいけないので、慎重に進まないといけません。少し下ると、七つ井戸と呼ばれる石垣造の井戸を四つ見られました。山城では水の確保が欠かせません。

七つ井戸の斜面から上を見上げると、壮大な光景を目の当たりにできます。

天守曲輪西下急斜面には土留めの石垣が連なるように築かれています。それによって確保された平坦地にいくつもの井戸が残っているわけです。見上げると、新櫓台まで巨大な高石垣のように錯覚します。何度も石垣の迫力に圧倒される登城でした。

今回は、累々と石垣が残る比高日本一の巨大山城に行けて良かったです。

参考文献:公益財団法人 日本城郭協会,(2018),『日本100名城に行こう』,学研プラス. 大野信長,有沢重雄,加唐亜紀,(2018),『日本の城1000城』,西東社. 加藤理文,中井均,(2019),『戦国の山城を極める:厳選22城』,学研プラス. 千田嘉博,(2018),『一生に一度は生きたい日本の名城100選』,宝島社.

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